第二次世界大戦後、ラオスでは
レジスタンス組織のラオ・イサラ(Lao Issara、自由ラオス)が結成され、
1945年10月に臨時政府を樹立した。その後、この政府は
フランス軍のラオス制圧を受けて
タイ王国に亡命した。
1949年に
ラオス王国がフランス連合内の協同国として成立するが、外交権や防衛権は与えられなかった。亡命政府の一部はフランスに懐柔されラオス王国に協力したが、これに妥協しない旧ラオ・イラサの左派勢力は、
ベトミン(Viet Minh)および
インドシナ共産党(Indochine Communist Party)に触発され、
スパーヌウォン王子(Prince Souphanouvong)および
インドシナ共産党の
カイソーン・プムヴィハーン(Kaysone Phomvihane)を主導者として、1950年8月に「ネオ・ラオ・イサラ」(Neo Lao Issara、ラオ解放戦線)を組織し、反仏闘争を続けた。
1953年、ネオ・ラオ・イサラの戦闘部隊であった「パテート・ラーオ」(ラオス愛国戦線)は、ベトミンと協力してラオス北西部を支配下に置いた。また、ボロベン高原を中心とするアッタプー、サーラワンなど南部でもオンケオ、シートン・コマダンらのパテート・ラーオ指導者が長く抗戦した。
1954年、ジュネーヴ協定のラオス条項により、ラオスから外国軍は撤退。パテート・ラーオは、自由選挙の確約を得るかわりに、中南部10省から撤収し北部2省に集結させられ、国際休戦監視委員会が停戦監視のために設置された。そして
1956年12月、ネオ・ラオ・イサラはパテート・ラーオと改称し、
1957年にはラオス王国政府と統一政府樹立宣言を行った。