江戸の場合には、江戸で使われている金貨(
小判)を銀貨(
丁銀)に交換する
銀相場、
大坂の場合には、大坂で使われている銀貨を金貨に交換する
金相場がそれぞれ存在しており、金一両=銀〜
匁(目)と表示されその相場は変動していた。また江戸における
銭相場は金一両=銭〜貫文、大坂における銭相場は銭一貫文=銀〜匁(目)で表示された。
江戸幕府は
慶長14年(
1609年)金1
両=銀50
目=銭4
貫文(4000枚)という御定相場を定めた。だが、東西間の経済活動が活発化するにつれて民間での金相場・銀相場は変動を生じさせ、幕府の定めた御定相場が形骸化するようになった。そのため、幕府は銀相場が下落していた実態に合わせて
元禄13年(
1700年)に金1両=銀60目、
天保通寳が多量に流通し銭相場が暴落した時は、これをくい止めるために
天保13年(
1842年)に金1両=銭6貫500文に改め、更に
両替商に圧力を加えて御定相場を維持しようと図った。たとえば
元文元年(
1736年)には貨幣の吹替え(改鋳)に伴い両替商が良質の旧銀を退蔵し銀相場が一時的に高騰したが、この銀高金安は江戸における
諸色の高騰につながるため、
大岡忠相は両替商を呼び出し相場の操作を止めるよう勧告するなど取り締まったが、しばらく銀高騰は収まらず軋轢を生じた。